第2回研究会の開催報告

研究会報告

2019年3月16日(土)に、神戸大学文学研究科フランス文学研究室との共催という形で、フランス抒情詩研究会の第2回研究会を開催することができました。私、廣田大地(神戸大学教員・ボードレール研究者)が会の報告をさせていただきます。

発表者と発表題目は、以下の通りです。

  • 中山慎太郎「死者に捧げる詩の言葉 ー フィリップ・ジャコテの場合」
  • 山口孝行「情熱と現実のあいだ ー ルヴェルディのリリスム」

当日は、上記発表者のお二人を含めて、10名の参加者があり、少人数ではありますが、フランス抒情詩に関心を持つ、ユゴー、ランボー、マラルメ、ベケット、ポンジュ、ルヴェルディなど様々な作家・詩人の専門とする研究者の方々にお集まりいただきました。

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一人目の発表者である中山さん。フィリップ・ジャコテが1966年から1967年にかけて執筆した詩集『ルソン(Leçon)』を取り上げ、ジャコテの詩における「私」と「死」との関係を中心に、その抒情性についてお話しいただきました。死に対する「私」を「死に行く者」あるいは「過ぎ行く存在」として捉えるジャコテの作品を、韻律や、ディスクール分析の観点も交えつつ、論じてくださいました。

詩篇の中で「あるいは」という表現が多用されることからも明らかのように、ジャコテの詩学において、死を前にしたときに、自己という明確な枠組みを保つことはできない。死の「悲しみ」としての抒情性は、私の内部にではなく、私と死者と空間という3つの間に存在する。―というような点が印象的でした。

ボードレールを研究する私(廣田大地)としては、「死」について語る、しかもボードレール以降の詩人として「死」を語るということが、どれだけ困難な作業なのかということを感じさせられました。同じ「死」を扱いつつも、非常に繊細な手つきで扱う様子が、ボードレールの理知的な力強さとは違い、どこか日本の俳諧の世界をも思わせるところがありました。

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二人目の発表者は山口さん。ルヴェルディにとっての「抒情性」を、「異なる2つのものが出会う中でほとばしりでるもの」として捉え、まず、ルヴェルディ自身による抒情性についての論述を追う中で、その枠組みを明らかにしてくださいました。そのうえで、詩篇「いつも愛を(Toujours l’amour)」(1927年)と「美でいっぱいの頭(La tête pleine de beauté)」(1928年)を取り上げ、作品におけるその抒情性のあり方を具体的に示していただきました。

その中で、ルヴェルディの詩学における抒情性のあり方が、充足した状態から、空虚な状態へと歳月の中でしだいに移っていき、それが後期ルヴェルディの詩学の特徴となっていくという流れが提示されました。さらには、その後のモルポワのような詩人においても、そのような「空虚」としての抒情性が受け継がれているという展望が示され、今後、20世紀という大きな枠組みの中でこの問題を論じられていくことが期待できました。

個人的に特に興味深かったのは、空虚というキーワードに関して、「美でいっぱいの頭」で呼びかけられている「きみ(toi)」という存在が、はたして何を表しているのかという点でした。恋人、美の概念、神、詩の本質など様々な対象を当てはめることができますが、そのいずれにも固定し得ない、言うなれば、抒情的「私」(je lyrique)に対する抒情的「君」(tu lyrique)を構成しているという印象を持ちました。

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