第4回研究会の開催報告

研究会報告

フランス抒情詩研究会・第四回研究会を、以下の概要にて開催いたしましたので、司会者による報告を記しておきます。前半の部の書評会は、19世紀を専門とする廣田には報告をまとめることが難しかったため、本研究会の共同代表である中山さんにお願いし、ご担当いただきました。

概要

  • 日時:3月 21日(月)14 :00 ~ 17 :30
  • 場所:神戸大学 鶴甲第一(国際文化)キャンパス D棟 D506教室
    • 司会:廣田大地(神戸大学)
  • 前半の部:書評会(14:00-15:40)
    • 山口孝行『ピエール・ルヴェルディとあわいの詩学』水声社、2021年
    • 著者:山口孝行(ECC国際外語専門学校)
    • 評者:吉田加南子(学習院大学名誉教授)、宇多 瞳(比治山大学)、久保田悠介(東京大学)
  • 後半の部:研究発表(15:50-17:30)
  • 1.詩と音楽のあわい?―ジャン・コクトーのシャンソン・パルレを読む
    • 発表者:中山慎太郎(跡見学女子大学)
  • 2.「取るに足らないもの」が歌い出すとき―ジャン・フォラン『時の使い途』(1943)における事物とリズムの関係について
    • 発表者:森田俊吾(東京大学)

研究会全体についての報告(廣田大地)

第4回目の開催となる本研究会ですが、第3回目の研究会(2019年7月27日)や、研究会メンバーによる仏文学会でのワークショップ開催(2019年10月27日)から数えて、2年以上の間隔が空いてしまいました。コロナ禍の影響が大きくはありますが、私自身、抒情詩研究から関心がやや離れてしまっていたことも理由の一つであり、この機会にまた研究会の活動や自身の研究を活発化させていきたいと思います。

さて、今回の研究会では、これまでとは異なる2つの特徴があります。1つは、Zoomを用いたオンライン・リアルタイム形式を併用したハイブリッド形式での開催という点です。主な発表者は会場に集まり、それ以外の参加者はオンラインで参加するという形式により、関西での開催にもかかわらず、関東からも多くの方々がご参加くださったことは大変良かったように思います。今後もハイブリッド形式での研究会の開催を続けていこうと考えています。

もう一点の大きな特徴は、これまでフランス抒情詩研究会で発表を担当くださってきたメンバーに加えて、発表者でもある森田俊吾さんが中心となり活動している「フランス現代詩研究会」(https://poetique.github.io/)のメンバーにも多数ご参加いただけた点です。抒情詩研究会の方は、時代を限定せずに「抒情詩」「抒情性」の本質について議論を深めて行く場としていますが、実際には共同代表の中山さんをはじめ20世紀以降の詩を対象として研究をおこなっているメンバーも多いです。ですから、今回、2つの研究会のメンバーが、ハイブリッド形式での開催により交流することができたことは大変に意義深いように思われます。今後も、フランス現代詩研究会をはじめ、関連分野の研究会とのコラボレーション企画ができればと願っています。

前半の部についての報告(中山慎太郎)

前半の部では、2021年に水声社から出版された山口孝行さんの『ピエール・ルヴェルディとあわいの詩学』の書評会を行ないました。ちなみに、書評会はフランス抒情詩研究会初の試み。今後、会員の著作、翻訳が出版された際には、著者・訳者にとってだけでなく、読者である私たちにとっても有益な情報を得ることができるため、書評会を行なうのが良いと感じています。

書評会では、まず山口さんに、ご著書の特徴と、その研究上の射程を報告いただき、その後、吉田加南子さん(詩人、学習院大学名誉教授)、宇多瞳さん(比治山大学)、久保田悠介さん(東京大学)に、それぞれの興味、関心に引き寄せていただきながら書評をしていただきました。

山口さんのまとめによると、『ピエール・ルヴェルディとあわいの詩学』で目指されたのは、書く行為の現場において捉えられるポエジーについて考察することであり、詩作品を「ポエジー再把持の失敗の痕跡」とするルヴェルディが止むことなく書き続けることのできた理由を探ることだということです。山口さんのお仕事は、シュルレアリスムに影響を与えた詩人として紹介されることの多いルヴェルディを、「書く行為」、「レエル」から捕らえ直すことで、日本でまだ十分知られているとは言えないルヴェルディ詩学の全貌を明らかにするものでした。また、第二次世界大戦後の詩人を研究する中山にとって、アンドレ・デュブーシェ、ジャック・デュパンとの繋がりを強く感じさせるものであり、その詩学の射程の広さをあらためて感じる機会となりました。

以下、書評者が述べられたことを中山の視点から簡単にまとめます。


詩人であり、フランス現代詩の研究者である吉田加南子さんは、山口さんのお仕事を、ルヴェルディの詩、詩論を丁寧に読み込んだ研究として評価されるだけでなく、山口さんがルヴェルディを通して「詩」そのものと向かい合い、問いかけていると指摘されました。また、吉田さんは、山口さんの著作を通して、ご自身が研究され、若き日には頻繁に顔を合わせていた詩人アンドレ・デュブーシェの「イメージ、尽き果てるときに」への理解を深めることができたこと、山口さんによって示されたルヴェルディ詩学が、詩人として現在向かい合っている「死者の声」や「鎮魂」といった問題意識と響き合っていることを述べられました。詩人として活躍され、また、第二次世界大戦後のフランス現代詩の空気を実地で体験された吉田さんのお言葉によって、山口さんのお仕事には、フランス詩の研究を超えて、「詩」そのものを問うといった広い射程が含まれていることがあらためて浮き彫りになったと思います。

二人目の書評者は、美術、美学の側からルヴェルディを研究されてきた宇多瞳さん。やはり専門家による書評ということで、山口さんのお仕事の特徴を丁寧にまとめつつ書評されました。宇多さんは、とりわけ、著作全体を通して詩作品や詩論が丁寧に読解されていること、あわいのイマージュが持つ多様な相(間、淡さ、契機、運動)が明らかにされていること、空虚と充溢の力動的な関係が見事に分析されていることを高く評価されました。また、山口さんのお仕事によって、過去の人、もう亡くなっている人物、ルヴェルディが生々しく浮かび上がってきたと述べられたことが印象的でした。日本におけるルヴェルディ研究をリードするお二人によって、今後広くルヴェルディが知られ、多くの読者を持つことを願ってやみません。

最後の書評者は久保田悠介さん。フランス現代詩、とりわけイヴ・ボヌフォワを研究されている気鋭の若手研究者です。久保田さんは、山口さんのご著書をとおして、ボヌフォワとルヴェルディのイマージュ論を比較・考察されました。デュブーシェやジャック・デュパンなど、フランス現代詩人のなかでルヴェルディを敬愛する者は少なくありません。しかし、ボヌフォワはルヴェルディについて一切言及することはありませんでした。これまで、ボヌフォワとルヴェルディは並べ比べられることはあまりありませんでしたが、久保田さんは山口さんの著作をもとに、両者のイマージュ論を比較・検討し、その共通点と差異を論じられました。かなり微妙な点も含むので、ここで詳細をまとめることはできませんが、少なくともルヴェルディのイマージュ論は、ボヌフォワのイマージュ論と響き合うところがあり、久保田さんの書評は、ルヴェルディ詩学の射程の広さをあらためて感じることができるものとなりました。山口さんと久保田さんには、今後、ボヌフォワとルヴェルディのイマージュ論の比較といった魅力的なテーマを掘り下げていってもらいたいと思います。

『ピエール・ルヴェルディとあわいの詩学』は、日本における初のルヴェルディ研究書であり、今後日本におけるルヴェルディ研究の基本文献となります。今回の書評会では、そういったルヴェルディ研究における重要性はもちろんのこと、ルヴェルディ詩学の射程の広さ、その深みが明らかになったと思います。ぜひ、今回の山口さんのお仕事が、フランス詩の研究者のみならず、広く読者を獲得し、詩や芸術のあり方を深く問うきっかけとなると期待しています。

後半の部についての報告(廣田大地)

後半の部は通常の研究発表の形式で、中山慎太郎さん(跡見学女子大学)と森田俊吾さん(東京大学)のお二人にご発表いただきました。

まず、一人目の中山さんは「詩と音楽のあわい?―ジャン・コクトーのシャンソン・パルレを読む」と題して、コクトーによる「モンテカルロ」という作品の分析を中心にお話しいただきました。シャンソン・パルレ(話された歌)という形態は、朗読の部分とメロディーを持った歌の部分とが組み合わせられたものであり、ドイツ出身の歌い手マリアンヌ・オズワルドによる外国人としての独特なフランス語の響きが、作品に不思議な魅力を与えています。幸いなことに、この作品は朗読の音源が残されており、発表においても実際に音源を紹介していただきました。(こちらから聞くことが出来ます。

この作品の分析において、中山さんが特に注目されたのが、「抒情主体」としての詩における「私(je)」です。まず、抒情詩というものが音楽性と密接な関係にあることを確認したうえで、この作品においては抒情性を持たない「朗読」の部分が続いた後で、「モンテカルロ!」と街の名前が繰り返される「歌」が始まることで、抒情性があふれ出すという特殊な構造になっていることを指摘されました。また、この作品における「私」が、伝統的な万人に共感し得るような抒情主体ではなく、カジノで一文無しになり自殺を考える女性という特殊な人物であることにも着目し、一般的な抒情主体ではなく、三人称的な存在に近づいていること、そしてそのことが20世紀の抒情詩のひとつの傾向になっていることを示唆してくださいました。

また、発表資料には、フランス語原文とともに、中山さんによる日本語訳が添えられ、原文にある言葉遊びの要素が翻訳にも反映されるよう工夫されており、発表内容とともに参加者にとって大いに刺激になりました。

続いて、二人目の発表者である森田さんからは「「取るに足らないもの」が歌い出すとき―ジャン・フォラン『時の使い途』(1943)における事物とリズムの関係について」という題でご発表いただきました。森田さんは、2020年12月にメショニックについての博士論文でパリ第3大学の博士号を取得されており、発表に際しては、これまでのメショニックの研究と今回のご発表がどのように結びついていくのか楽しみに感じていました。

ご発表は、おおまかに分けると2部構成になっており、前半ではメショニックによるリズム分析というものが具体的にどのようなものであるのかを、実際にマラルメ、ツェラン、ユゴーについてのメショニックによる詩句分析を紹介することで、分かりやすく提示していただきました。それによって、メショニックによる詩のリズム研究が、リズムそのものを研究対象とするのではなく、リズムという概念を通じて、表面的には見えてこない、あるいは聴こえてこないものを聴きとろうとする作業であるということが示されました。

また、そのようなリズム分析において有効なツールの紹介もあり、各参加者にとっても今後の研究の参考になったように思われます。たとえば、次のサイトは入力されたフランス語をIPAの発音記号に自動変換してくれるものです。(https://www.openipa.org/transcription/french

後半においては、ジャン・フォランの詩篇をいくつかご紹介いただき、たとえば詩篇「食材店の旦那」の冒頭における「L’épicier époux de l’épicière, / avec sa serpillière」という詩句で、[p]の音をはじめとして幾つかの音が繰り返されることでリズムが生まれ、早口言葉のような面白みが感じられる点を、メショニックによるリズム分析の手法を応用しつつ、示していただきました。フォランの詩は、伝統的な一人称による抒情詩とは異なり、主に三人称で書かれていますが、非人称的抒情(lyrisme impersonnel)とでも言うべき独自の抒情性が、そのようなリズムなどの隠れた要素によって表現されているのではないかという視点をご提示いただきました。

お二人とも、これまで専門的に研究されてきた詩人・論者とは異なる新たな詩人を対象としたご発表でしたが、共通する点も多く、20世紀前半におけるフランス詩の一つの流れをともに示してくださったように思います。本研究会の代表でありつつも、20世紀詩については未だにまったく明るくない私にとっては、久しぶりに極上の授業を受けさせていただいた気分になりました。書評会に参加くださった山口さんをはじめとした皆さん、ご発表いただいたお二人、そしてお集まりいただいた参加者の皆さまには、あらためて厚くお礼申し上げます。

 

 

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